2013年6月29日土曜日

2013年6月16日(日曜) クチャ~クチャ郊外観光~クチャ

2013年6月17日(月曜)晴れ、7時30分起床、8時30分朝食、9時15分ホテル出発
 
観光バスに乗ってクチャ郊外観光に出発! 9:15
 
長年憧れていたクチャにやっと来られた!!
鳩摩羅什像を今日、見られる!!
 
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」
 
今日も一所懸命説明するガイドさん
 
唐の時代648年 には西域(安西)都護府が置かれ、西域の中心となった。  
そのころ、クチャの住民の多くはインド・ヨーロッパ語族のアーリア系の仏教徒であった。
その人々が築いた「亀茲国」という仏教王国があった。

しかし、840 年の遊牧帝国ウイグルの崩壊からはじまるトルコ系民族のタリム盆地への移動 以来、イスラム教徒のトルコ系の民族へと代わっていった。
現在この地に住むウイグル族は混血して同化していったと考えられる。

亀茲楽と呼ぱれる歌舞は、亀茲国の面影を今に伝えている。
 
4世紀頃、訳経僧クマラジーバ(鳩摩羅什)が、サンスクリット経典を漢訳して東方に伝えた。
玄奘と共に二大訳聖と言われる。
唐の玄奘による訳経を「新訳」と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)
それ以前を「古訳」と呼ぶ。(ウイキペディアより)

摩訶般若波羅蜜経、妙法蓮華経、仏説阿弥陀経、維摩経、坐禅三昧経、大智度論、中論等の訳経。

ガイドさんが鳩摩羅什の出生等を説明していた。
以下「クマラジュウ苦悩の仏教者」ひろさちや原作、阿部高明漫画よりの要約

①350年インドの名門貴族出身でカシミール生まれの鳩摩炎を父に、
 亀茲国王の妹のジーヴァカを母として亀茲国に生まれる。
②7歳、母と共に出家。
③9歳、小乗仏教の中心地カシミールに留学、バンズダッタのもとで
 原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。
④12歳、阿羅漢(小乗仏教の修行での最高位)から予言を受ける。

⑤ヤルカンドの王子・須利耶蘇摩(スリヤソマ)と出会って大乗仏教に転向。
 主に中観派の論書を研究。
 「吾がむかし小乗を学べるは、たとえば人の金を知らずして
  鍮石(純銅)をもって妙となすが如し」との言葉は「高僧伝」に記載されている。

⑥20歳、受戒、比丘になる。「般若経」との出会い。
⑦384年、亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となる。
⑧35歳、呂光の意向で王女を受け入れて(女犯)破戒する。阿羅漢の予言
 軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。
⑨401年後秦の姚興に迎えられて長安に移転。
⑩402年姚興の意向で女性を受け入れて還俗させられる。
 以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。
⑪409年8月、60歳で逝去。
 亡骸が荼毘にふされたとき灰の中に舌だけが残っていたと伝えられている。

クチャの街路
クチャの街路 広々した道路に三輪車や人を乗せたトラクターもどきが走っていた。
火力発電所 中国国電
 
 
セメント工場

太陽光発電で動作している沙漠のなかの携帯電話用アンテナ
 
安全検査の案内看板
 
公路料金所+検問所
中国人向けに道路の途中で臨時検問所がある。
南疆地区での暴動警戒、写真撮影禁止
 
警察の検問 運転手の免許証確認

公路管理事務所

大型トラックの休息場所 兼 簡易トイレ (青空トイレの利用者の方が多い)
検問所近く

塩水渓谷 

中国のグランドキャニオン、玄奘三蔵ゆかりの地
クチャから北へ伸びる国道(217号線)があり、チャールタグを通り抜け、天山山脈を突切り、
天山北路側に通ずる国道。
この国道を10キロほど北上すると、土地の人たちが「塩の水の川」と呼ぶ、塩水渓谷がある。
この渓谷には殆ど水はなく、河底には結晶した塩が白く見えるはずであったが降雨の後で流されて見えなかった。
両岸には風化で出来た独特なヤルダン地形が、この土地の厳しい環境を表している。

 
塩水渓谷 MHさんスケッチ
 
ヤルダン地形
 
砂漠の中にある側面が急崖となる細長い列状の丘をいう。
一定の風向をもつ風の侵蝕によって生じたとされている。

 
甌穴(おうけつ) 河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴
 
 
 塩水渓谷
 塩水渓谷 河原の塩、ミョウバンの白が雨後のため見られなかった。
 

 塩水渓谷

キジル千仏洞(克孜爾千佛洞)

中国四代石窟の一つで、クチャから北西へ70kmのバイチョン(拝城)県にある。
石窟はムザト河北岸の40mの断崖に東西2キロに渡って創られている。
3~4世紀頃、クチャからバイチョンにかけての一帯は、亀茲国と言う一大仏教王国が栄えており、その亀茲国を代表する仏教遺跡である。(インターネットウェッブページより引用)

クマラジーバ(鳩摩羅什)の像が、正面広場に建てられているが、ガイドの話ではキジル千仏洞とクマラジーバとは直接は関係はないという。 
鳩摩羅什は大乗仏教を広めた訳経僧。
キジル千仏洞の信者は、上座部仏教(小乗仏教)を信じていたとのこと。

鳩摩羅什像
1994年9月1日、新疆亀茲石窟研究院制作

石窟の掘削は3世紀(後漢末期)に始まり、6~7世紀に最盛期を迎えた。
発見されている石窟の数は236窟で、内70窟に壁画が残存している。
その壁画の総面積は1万平方mになる。
クチャを代表する遺跡だけあって、周辺の遺跡に比べ、遺跡全体の整備が行き届いている。

石窟を見学するには、管理事務所で申し込む。
また、カメラや手荷物などは全て管理事務所に預けねばならない。
石窟の内外を問わず全く写真撮影ができない。周辺の写真だけ撮れる。

 キジル千仏洞への道 11:26
 
克孜爾千佛洞石碑  入場料100元
 
 鳩摩羅什像とキジル千仏洞
MHさんスケッチ
 

 鳩摩羅什像とキジル千仏洞

So夫妻 記念撮影
 
後方Ta夫妻    MSuさんとMHさん
 

 新疆亀茲研究院学術交流中心(センター)で昼食、その前にWUSUビールで喉を潤す。

麺が長くて立ち上がらないと小鉢に入らない。
 

新疆亀茲研究院学術交流中心(センター)

キジル千仏洞内はカメラや荷物の持ち込み禁止なので洞内の壁画は撮影できない。
新疆亀茲研究院学術交流中心のレストランの壁に壁画の写真が貼ってあったので
それらを撮影した。(下図6枚)

 壁画1
壁画2
 壁画3
 壁画4
壁画5
壁画6

クズルガハ千仏洞(克孜爾乃小哈千佛洞)

塩水渓谷の岸壁にある石窟で、漢代から唐代にかけて46窟が造られた。
破壊が進み、不完全ながら壁画が残っているものは10窟程度しかない。

キジル千仏洞から2人のガイドと一緒に同じバスで来た。
クズルガハ千仏洞は、観光施設として整備中であった。
ガイドさんが石窟の鍵を開けて扉を開くと、作業員が一緒に入ってきて一緒に壁画を見ていた。

キジル千仏洞と同様でカメラや荷物の持ち込み禁止であった。
入口近くでの撮影のみであった。

克孜爾乃小哈石窟の石碑

 クズルガハ千仏洞 修復工事をしていた。(オートバイ3台)
クズルガハ千仏洞
 
キジル千仏洞から一緒に来た2人の可愛いガイドさん と Soさん
2人のガイドさん(新疆亀茲石窟研究院員)は、クチャ市街地まで一緒だった。

石窟内の写真撮影禁止なので「ふれあい中国」のサイトより壁画写真を引用した。
 壁画写真1
 壁画写真2
壁画写真3
 

クズルガハ蜂火台(克孜爾乃小哈蜂火台)

2000年前の蜂火台跡。
かつて上部には縄梯子で登って烽火や旗を揚げた。

 新彊地区最大の峰火台跡で、東西6m、南北4.5mの土台に、高さ約13.5mの土塔が残っている。
烽火台の左側は、川の切り立った断崖になっており、広大な河の眺めは壮観。

克孜爾乃小哈蜂火台
 
 クズルガハ蜂火台 上部に小屋があった。縄梯子で登ったとのこと。
フェンス左側は断崖、その下に川が流れている。

 
平たい台地に、悲劇の伝説が残るクズルガハ蜂火台がある。
その昔、亀茲国の王は年老いてから授かった、珠のように美しい王女をちょう愛していた。

ある日占い師に「この娘は100日以内に死ぬであろう」と宣告された国王は、
この地に土の塔を築いて王女を隠すことにした。
しかし1OO日目に国王が贈ったリンゴを食べ、王女は死んだ。

クズルガハ蜂火台の影 遠く沙漠の崖下の河原近くにクズルガハ千仏洞がある


 クチャに戻る途中の果物露店
スイカ12元、マンゴスチン1.5㎏15個52元
 
クチャに戻る途中の露店
ナンを購入したIs夫妻



クチャに戻る途中のできごと
 
 クチャの市場1 (バスから撮影)
  クチャの市場2
  クチャの市場3
 クチャの市場4 すごい人出とオートバイ 17:37
 

熱帯植物園のあるレストラン
 
従業員が始業前体操をしていた。
 
ビール30元
 
 
夕食後ホテルに戻り、一段落して添乗員木村さんの案内で、
お酒持ち込みありの飲みに出かけた。
強い焼酎であったがとても美味しかった。雰囲気も良く楽しかった。
 焼き肉屋41元12名
 シシトウ、羊肉、ニンニク、ニラ等

スケッチしたのを見に来た焼き肉屋の若者  記念撮影
 
 クチャの焼き肉屋で記念撮影 21:23
ここでTaさんと近所で、かつて同じ会社に勤めていたことを知り、驚きそして
世の中狭いものだと感じた。
 
家族そろって夕食   木村さんが中国語で話している。

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